Masuk映画館の暗闇に、朱里の心臓の音だけがやけに大きく響いていた。
スクリーンでは派手なカーチェイス。爆音が鳴るたびに、彼女の肩がびくっと揺れる。「……大丈夫か?」 隣の嵩が、小さく囁いた。 その声に、朱里は反射的に首を横に振る。「だ、だいじょぶ……!」 ほんとは全然大丈夫じゃない。 なのに「怖い」と言えないのは、あの一言が頭の中で繰り返されるから。 ──なんで、私なの? 自分で言ったくせに、答えを聞くのが怖くてたまらなかった。 嵩は映画のチケットをもらったから、と気軽な感じで誘ってくれた。 でも、あの時の「なんで私なの?」という言葉を、彼がどう受け取ったのか──そのことがずっと、心の奥でひっかかっていた。 スクリーンの光に照らされた嵩の横顔を、朱里は午後三時。 嵩は人事部の会議室で、静かに背筋を伸ばしていた。 机の上には、紙一枚。 それだけなのに、やけに重い。 「平田さん、改めてですが──」 人事担当の声は淡々としている。 感情を挟まない、仕事の声。 「異動日程が確定しました。来月の第二月曜付で、関西支社への着任になります」 来月。 第二月曜。 頭の中で、カレンダーが自動的にめくられる。 (……あと、三週間) 「引き継ぎ期間は二週間。送別会は部署判断になりますが、日程は調整してください」 “ほぼ確定”だった話が、 “変更不可の予定”に変わった瞬間だった。 「質問はありますか?」 嵩は一拍置いてから、口を開く。 「……異動の延期や再検討の余地は」 「ありません」 即答だった。 「今回の人選は、能力と今後の配置計画を含めたものです。平田さんにとっても、キャリア上はプラスになります」 “正しい判断”。 それが一番、逃げ場のない言葉だと嵩は思った。 「分かりました」 そう答え
昼休み。朱里は社内カフェの端の席で、サラダをつついていた。食欲はあるはずなのに、フォークがやけに重い。(噂、広がるの早すぎ……)視線を上げると、案の定、遠くのテーブルで“それらしい話題”が小声で交わされているのが見える。その空気を割るように、トレーが置かれた。「隣、いいですか?」顔を上げると、望月瑠奈だった。「……どうぞ」断る理由も、断る気力もない。二人並んで座り、しばらくは無言で食べる。沈黙を破ったのは、瑠奈のほうだった。「先輩、噂……聞いてますよね」主語を言わない。でも、何の話かは分かる。「……まあ」「ですよね」瑠奈はそれ以上追及せず、ストローでアイスコーヒーをかき混ぜた。「私、先輩のこと、ずっと不思議だなって思ってて」朱里の手が一瞬止まる。「不思議?」「はい。好きなのに、嫌いって言えるところ」胸に、軽く針を刺されたみたいだった。「……それ、悪口?」「いえ。むしろ逆です」瑠奈はまっすぐ朱里を見る。「本当にどうでもいい人には、そんな言葉すら使わないじゃないですか」
朝のオフィスは、いつもより少し騒がしかった。「ねえ聞きました?」 「やっぱり、決まりそうなんですね」 「正式発表、来週らしいですよ」コピー機の前、給湯室、通路の端。小声は意外なほど遠くまで届く。中谷朱里は、パソコンを立ち上げながら、周囲のざわめきを“聞こえないふり”をしていた。(……来たな)昨夜、美鈴が言っていた言葉が脳裏をよぎる。――次からは、“選ぶ話”。画面に映る業務メールを確認していると、社内チャットの通知が一件入る。【人事部より:来週月曜、全体朝会を実施します】短い一文。けれど、それが意味するものは重かった。(転勤の、正式発表……)胸の奥が、じわりと冷える。まだ決まっていないはずの未来が、勝手に日付を持ちはじめる感覚。「先輩」顔を上げると、望月瑠奈が立っていた。いつもの明るさはそのままなのに、今日はやけに真っ直ぐな目をしている。「……何?」「平田さん、来週から忙しくなりますよね」その言い方は、質問というより確認だった。朱里は一瞬、言葉に詰まる。「さあ……どうだろう」瑠奈は首を傾げる。「でも、時間は待ってくれませんよ」悪意はない。
夜。キッチンの照明だけが点いた部屋で、朱里と美鈴は向かい合って座っていた。テーブルの上には、温くなりかけたマグカップが二つ。「……で」美鈴が先に口を開いた。「結局、どうなったの?」朱里はスプーンでカップの縁をなぞりながら、少し考えてから答えた。「何も、決まってません」「うん」「でも……何も言わずに終わった、って感じでもないです」美鈴はそれを聞いて、ふっと息を吐いた。「朱里らしい答えですね」「そうですか?」「ええ。全部言って全部決めて全部背負う、ってやり方。 昔の朱里なら、無理してやってた」朱里は苦笑した。「……今回も、やろうとしました」「でしょうね」間髪入れずに返されて、朱里は肩をすくめる。「でも、途中で分からなくなって。 “今の私が言えること”と、“まだ言えないこと”があるって」美鈴は黙って聞いていた。評価もしない。結論も出さない。ただ、親友としてそこにいる。「嵩さんは?」「……前に進もうとしてる顔でした」「それで?」「それを見て、ちょっと安心して、ちょっと怖くなりました」正直すぎる言葉が、ぽろりと落ちる。
中谷朱里は、スマートフォンを伏せたまま、しばらく動けずにいた。 画面に表示された嵩からの短いメッセージは、もう何度も読み返したはずなのに、胸の奥でまだ反響している。 ——ありがとう。 ——あのとき、言われなかった言葉に救われました。 それだけだった。 理由も説明も、感情の整理もない。けれど、朱里には十分すぎるほどだった。 「……そうか」 誰に向けるでもなく、小さく呟く。 伝えなかったことが、誰かを前に進ませることもある。 それは、勇気を出して話すこととは別の、もうひとつの選択だったのだと、今さらながら実感する。 キッチンから、田中美鈴の声がした。 「朱里ー、そろそろ行く時間じゃない?」 「はい、今行きます」 立ち上がり、コートに腕を通す。 鏡に映る自分は、少しだけ表情が柔らいで見えた。 「……よかったですね」 ふいに、美鈴が言う。 何のことかは聞かなくてもわかる。 「はい。でも、何かが終わったって感じじゃなくて」 「うん?」 「始まった、というほどでもなくて……ただ、ちゃんと“今”に戻ってきた感じです」 美鈴は一瞬考えてから、笑った。
定時が近づくにつれて、 朱里の集中力は、少しずつ削れていった。 時計を見るたびに、針が進むのがやけに遅い。 (あと一時間……三十分……) 仕事は終わる。 でも、今日の本番はその先にある。 「中谷」 低い声に、肩が小さく跳ねた。 振り向くと、美鈴が立っていた。 いつも通りの、落ち着いた表情。 「今日、定時で上がれる?」 「……はい。大丈夫です」 朱里の答えを聞いて、美鈴は一瞬だけ視線を細めた。 「そう。じゃあ、無理しないで」 それだけ言って、去っていく。 詮索も、励ましもない。 でも―― (知ってる) 美鈴は、何かを察している。 それを言葉にしないのも、彼女なりの距離の 取り方だ。 午後六時。 PCをシャットダウンし、立ち上がる。 周囲の音が、いつもより遠く感じる。 エレベーター前に向かう途中、 ふと視線を上げると―― 嵩がいた。 壁際







